◆インド文学
ヴィシュヌの死 
The Death of Vishunu
マニル・スーリー 著/和田穹男訳

定価(本体1800円+税)
■四六判上製/368頁 ■ISBN4-8397-0112-1 ■2002.9
【バーンズ&ノーブル ディスカヴァー・ブック賞第1位】
【ペン/フォークナー賞ノミネート】

今、インド文学が元気だ。インド人数学教授の小説家デビュー作。
哀切かつ抱腹絶倒の物語。
騙し、盗み、娼婦に恋し、飲んだくれて生きた男ヴィシュヌが、ボンベイのアパートの階段で死につつある。神と同名のその男が暮らしてきた踊り場は今、賎と聖、下界と天上界の分岐点だ。神の座へと一人階段を上がっていく彼の魂。一方、アパート住人は、若い恋人達の駆け落ちに上を下への大騒ぎ。醜くもあれば美しくもある、人間の諸相を描く傑作。

本書の最初の1ページを読んだだけで、驚くべきデビュー作と知った。高い評価と多くの読者を獲得するに違いない。

[エイミー・タン(作家)]


読者はうっとりと魅了され、かと思うと今度は大笑いさせられる。昂揚と悲痛、劇(ドラマ)と茶番(ファルス)のみごとなブレンド。

[パブリシャーズ・ウィークリー]



ためしよみ(冒頭より)

1

 ヴィシュヌはまだ死んでいないかもしれない。だとすれば、目を覚まさせたくない。アスラニ夫人はやかんを手に足音を忍ばせて、彼がいつも寝起きしている踊り場の三段上の階段まで下りていった。
 踊り場を中継に、階段はカーブしている。そこの石の床に長々と寝そべっているヴィシュヌの姿が目に入った。片手の指にスニーカーの紐が絡みついており、もう一方の手は次の段へ体を引っぱり上げようとするかのようにまっすぐ伸ばされている。アスラニ夫人はヴィシュヌが夜中に嘔吐し、そのうえ大小便まで漏らしたのに気がついて頭にかっと血が上った。隣家のパタックの女房にヴィシュヌの体調が悪いときには食べ物をやるなとこれまで何度も注意を促してきた。だが、あの女ときたら人の忠告を聞いたためしがない。夫人はヴィシュヌの擦り切れたカーキ色のズボンに広がった大きなしみに目を向けないようにした。そのズボンは夫が昨年のディーワーリー
(女神ラクシュミの祭)の際に与えたものだ。まったく気色が悪い。掃除婦を呼んで早く汚物を片づけさせたいところだが、無料(ただ)というわけにはいかず、誰かが金を出さなければならない。夫人の大きな体に巻きつけたサリーが、肉に圧迫されてはち切れそうになる。彼女は階段の三段上の安全圏からヴィシュヌをのぞきこんだ。間違ってもこっちは金なんか出すものか。
 それより、至急解決しなければならない問題がある。毎朝ヴィシュヌに茶
(チャイ)を一杯持ってきてやる習わしだが、さてどうしたものか? 今のようすではどう見ても茶を欲しがっているとは思えない。昨日だって、プラスチックのコップに茶を注(つ)いでやったのに、もぞっと動いただけでいつもの挨拶さえ返さないのにはむかついた。とはいえ、死にかかっている男に茶をふるまってやることは最高に慈善的な行為だ。この崇高な行為を毎日欠かさずわが身に課してきたのだから、今になってやめてしまうのも馬鹿げている。この男が茶を欲しがるとしても、あとせいぜい二杯か三杯でお終いだろう。日課の儀式を途中で放り出したりしたら、とんでもない災いが降りかかってくるかもしれない。
 サリーの布の端を鼻に当てて悪臭を防ぎ、アスラニ夫人は用心深く踊り場へ下りた。そのつもりで用意してきた茶色い紙片を使って、ヴィシュヌの頭の脇にある小さな荷物の山からコップをつまみ上げる。コップにじかに指が触れないよう細心の注意を払った。ヴィシュヌがどんな病気を持っているかわからないが、うつされるのはご免だ。踊り場のすぐ上の段にコップを置くと、彼女はやかんの茶を注いだ。上等の茶が無駄になると思うといまいましい。コップ半分まで満たしたところで手を止めたが、考えなおしていつもの量まで注ぎ、先ほどの気高くも慈善的な誓いを果たした。それから数段階段を上って見おろした。コップから湯気が昇っている。ヴィシュヌは踊り場いっぱいに体を伸ばし、コップに手を届かせようとしているかのように見える。あたかも砂漠に倒れ、命をつなぐ水を求めて手を突き出したまま息絶えた男の図だ。夫人はコップを彼の手のそばへ近づけてやろうかと思った。だが、茶色い紙きれは踊り場の床に落ちており、そのどっちの面でさっきコップに触れたのか見分けがつかない。もうこれ以上しようがない。夫人は向きなおって階段を上った。自宅フラットのドアの前まで来て、ヴィシュヌが生きているものやら死んでいるものやらわかっていないことに思い当たった。でもそれはどうでもいい。どっちにせよ自分の義務は果たした。彼女は満足してドアを開けた。

 コップの茶の表面からゆらゆらと湯気が立ち昇っている。熱いミルクの甘ったるい匂いにカルダモンとクローブ
(丁子)の香りが絡む。湯気はたなびくかと思うと渦を巻き、ふと立ち上がってはまた崩れつつ、あたかも淡々(あわあわ)とかすれゆくアルファベット文字を綴り合わせようとしているかのようだ。
 急に風が吹きこんでくる。湯気はくるくるまわりながら、身動きせずに横たわっている男の方へ流れ寄る。もう目には見えないほど薄れて男の顔を撫で、鼻の下をくすぐる。
 湯気の運んだ匂いが男の内に記憶を蘇らせる。母親の記憶。ブリキと段ボール箱をつぎはぎした小屋の中、母親は古い鉄のやかんに茶を作っている。湿った茶の葉を手に握り、力いっぱい絞る。何度も何度も使われた茶の葉は、どう絞っても香りが出なくなってから捨てられる。
 パドミニの記憶。ここにも湯気は漂っているが、やはりカルダモンの香りもクローブの香りもしない。だが別の香りがする。幾重にも巻かれた真珠のブレスレットのように、彼女の手首を飾るジャスミンの花が匂う。二人が交わったあと、もし彼女を別の客が待っていなければ、売春宿の小間使いの子どもが茶を運んでくる。二人はベッドに坐り、黙って金属製の大きなコップの茶をすする。
 カヴィータの記憶。と、湯気はにわかにミルクと香料の甘やかな匂いを濃く漂わせる。彼女がうつ向き加減に彼のコップに茶を注ぐ。長い黒髪がはらりと垂れてその笑顔を枠取る。昨年、アスラニ夫人は一か月近く病気で寝こんだことがあった。その間、娘のカヴィータが日課の儀式を代わりに務めた。ヴィシュヌは毎朝もつれた髪を壊れた櫛でとかし、彼女の姿が見えるや、いい方の目でウィンクし、歯を剥
(む)き出しにして「お早う、お嬢さん」と挨拶したものだった。
 コップから立ち昇る湯気は、男の内にこれらの記憶に加えて他の記憶まで掻きたてようとする。彼の母親は祭りの日ともなると出がらしの茶の葉をすっかり捨て、新しい茶に気前よくスプーンで二、三杯砂糖をすくい入れて甘みを加えた。パドミニは金属コップの縁に唇を強く押しつけ、どぎつく赤い模様のついたそれを笑いながら彼に手渡した。カヴィータは前屈みになるとき、スカーフが落ちないよう注意しながら、やかんが指を火傷させそうに熱いため、右手から左手へまた右手へと何度も持ち替えた。
 男の鼻腔から吐き出された息が、湯気をほつれさせ、続いて撚
(よ)り合わせる。撚り合わさった湯気は一瞬かすかに光り、それから消えていった。

 アスラニ夫人がヴィシュヌに朝の茶を運ぶようになって十一年経っていた。それ以前は、同じことをのっぽガンガ(雑役婦)にしていた。誰も覚えていないくらい昔から、一階と二階の中間の踊り場に寝起きしてきた年寄り女である。ある日、のっぽガンガが、パタック夫人とアスラニ夫人に向かって、朝のミルク配達も午後の皿洗いももうする気はないと告げた。最後の娘を結婚させるだけの金がどうにか貯まったし、自分は村へ戻って余生を長男のところで過ごすつもりだというのが理由だった。代わってヴィシュヌが雑用を引き受け、踊り場で寝る権利も引き継ぐ。だから、手間賃もヴィシュヌに支払い、朝の茶と残りもののチャパティーも彼に与えるようにというのだった。
 パタック夫人もアスラニ夫人もこれを聞いて当惑した。ヴィシュヌは飲んだくれで、午後になるといつも通りからアパート入口の階段を二、三段上った一階の小さな踊り場でぐったりしゃがみこんでいる迷惑な男だ。両夫人はのっぽガンガに、もっと信用できる人物と交替してくれと言い張った。ミルク瓶であれ皿であれ、ヴィシュヌの手で触られると思うとぞっとする。「あんたはここに長いこといたんだから、それくらいの気配りはしてもらいたいわよ」パタック夫人が非難がましい口調で言った。
 この言い分にのっぽガンガは気色
(けしき)ばんだ。
「おや、あたしがここで暮らしてきたのはみなさんがたのお情けによるって言うんですかい? あたしはね、パタックの奥さん、お宅よりずっと前からいるんですよ。このアパートに住んだ家族はみんな、あたしがこの手で洗った皿で食べてきた。お宅らみたいにあたしは金持ちじゃないけど、誰よりもここに住む権利があるはずだ!」両夫人はのっぽガンガの目に熱い涙が湧いているのを見て、何も言い返すことができなかった。のっぽガンガが歳のせいで曲がった腰をまっすぐ伸ばし、ぬうっと体を起こした。すると、サリーで髪を覆った頭があやうく天井にぶつかるところだった。「ヴィシュヌにもう話はつけてあります」眼下の二人に目を据えて彼女は宣告した。「代わりはあの男です。お宅らの子どもさんは、あたしが届けたミルクで育った。だからこっちの顔はちゃんと立てていただかなくちゃね」。パタック夫人もアスラニ夫人もうなずくしかなかった。

 両夫人がこの一件について一階のタバコ屋から裏の事情を聞いたときは後の祭で、すでにヴィシュヌが一階の踊り場からこの二階の踊り場に新しく居城を構えていた。のっぽガンガは、ヴィシュヌを公式の交代要員に任命する礼金として、彼からまんまと二〇〇〇ルピーをせしめていたのだ。



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