自己の変容---クリシュナムルティ対話録
THE URGENCY OF CHANGE
著/J・クリシュナムルティ 
訳/松本恵一
定価(本体2000円+税)
■四六判上製/280頁 ■ISBN4-8397-0103-2 ■1992.4

私たちが自分を変えようとするとき、必ず陥るいくつかの〈罠〉があり、それをはっきり自覚しないかぎり根源的な〈自己の変容〉はけっして起こらない、とクリシュナムルティは言う。では、その〈罠〉とはどのようなものなのか? そして自分を変えるために本当に必要なことは何なのか? 身近な生の問題をめぐる徹底的な対話を通して、それらがしだいに明らかにされていく。


ためしよみ

気づき

質問者 あなたの教えは本当は「気づき」についてであると、たびたびおっしゃってこられましたので、私はあなたの言われる「気づき」がどういう意味なのか知りたいと思っています。あなたのお話を聴き、本を読んでそれを理解しようとしましたが、よくわかったようには思えません。それが練習でないことはわかります。また、あなたがなぜどんな種類の練習、訓練、体系、修練、習慣をも、あれほどまでに強く否定されるのかも理解しました。その重要さはわかります。それらによって心は機械的になり、ついには愚鈍になってしまうからです。そこでもしよろしければ、「気づいている」とは何を意味するのかというこの問題を、あなたと納得のゆくまで探究したいのです。あなたはこの言葉に、何か特別な、深い意味を込められているようですが、私たちはどのような状態にも気づいていると私には思えます。怒っているとき、私にはそれがわかります。悲しいときも楽しいときもそれがわかります。

クリシュナムルティ 私たちは、怒りや悲しみや幸福に本当に気づいているでしょうか。それとも、それらが終わったときにだけ気づくのでしょうか。それについて何も知らないときのように、無の状態からはじめましょう。教義的な、あるいは難解な主張は捨てて、この問題を探究してみましょう。これを真に奥深くまで探れば、おそらく心がけっして触れえない非凡な状態、表面的な気づきによっては触れえない次元が現われることでしょう。表面的なものからはじめて、進んでいきましょう。
 私たちはまわりのものを目で見、感覚器官によって知覚します――花の色、花の上のハチドリ、カリフォルニアの陽光、微妙に異なる無数の音、深さや高さ、木陰や木そのもの。同じように、私たちは自分の身体――数種の表面的・感覚的な知覚のための道具――を感じます。もし、これらの知覚が表面的なレベルにとどまれば、まったく混乱はありません。あの花、あのスミレ、あのバラがそこにあり、それに関してはただそれだけです。選択もなく、比較もなく、好き嫌いもなく――心理的になんの影響もなく、ただ事物が私たちの前にあるだけです。この表面的・感覚的な知覚または気づきは、はっきりわかりますか。それは現代の技術を駆使することによって、星へ、深海へ、さらには科学的観察の究極的な未開拓領域へと拡げることもできます。

質問者 ええ、それは理解していると思います。

クリシュナムルティ そこで、あなたはバラ、全世界とそこに住む人々、あなたが妻帯者ならあなたの妻、星、海、山、微生物、原子、中性子、この部屋、そのドアが現実にそこにあるのを見ます。さて、次の段階に移りましょう。これらのものについてあなたが考えることや感じることが、心理的な反応です。これが「思考」や「感情」と呼ばれるものです。ですから、表面的な気づきはごく単純なものです――ドアはそこにあります。しかし、「ドア」という言葉はドアそのものではありません。そして、その言葉の表現から感情的に影響を受けるとき、あなたにはドアが見えません。この言葉の表現は、ひとつの言葉や科学的論文やきわめて感情的な反応かもしれませんが、これらはすべてドアそのものではありません。最初からこれを正しく理解することがひじょうに重要です。これを理解していなければ、ますます混乱するだけです。言葉はけっしてそれが表わす当のものではありません。そういう今も私たちは言葉で表現していますが――そうしなければなりません――言葉が表わしているものとその言葉は別のものです。どうか、私たちの話しあいのあいだずっと、このことを心にとめておいてください。言葉とそれが表わしているものを、けっして混同しないようにしてください。言葉は現実のものではありませんが、個人的になり、言葉によって感情的になる、「気づき」の次の段階では、私たちはこれを簡単に忘れてしまうのです。
 ですから、木、鳥、ドアへの表面的な気づきがあり、そしてそれに対する反応――思考、気分、感情――があります。さて、この反応に気づくようになるとき、私たちはそれを「気づきの第二の深み」と呼べると思います。バラへの気づきがあり、さらにバラに対する反応への気づきがあります。私たちはしばしば、このバラに対する反応には気づいていません。実際には、バラを見るのと反応を見るのは同じ気づきです。それはひとつの動きであり、外側の気づきと内側の気づきがある、というのはまちがっています。心理的な影響を受けずに、木に視覚的に気づくとき、関係のなかに分離はありません。しかし、木に対して心理的な反応があるとき、この反応は条件づけられたもの、すなわち過去の記憶や経験からの反応であり、それが関係のなかに分離をもたらします。この反応によって、関係のなかに、いわゆる〈私〉と〈私でないもの〉が生まれるのです。これが世界との関係におけるあなたのあり方です。これが個人と社会がつくり出されるしくみです。世界は、記憶である〈私〉とのさまざまな関係において見られ、ありのままに見られることはありません。この分離が生活であり、「心理作用」と呼ばれるものの繁茂であり、ここから矛盾と分裂のすべてが起こるのです。これがはっきりとわかりますか。木への気づきにはなんの評価もありません。けれども、その木に対する反応があるとき、その木が好き嫌いによって判断されるとき、この気づきのなかに〈私〉――観察の対象とは別の〈私〉――と〈私でないもの〉という分離が起こります。この〈私〉とは、過去の記憶や経験が、関係のなかで起こす反応なのです。それでは、どのような判断もなく、木に気づき、観察できるでしょうか。また、どのような判断もなく、反応や反発を観察できるでしょうか。このように、私たちは木を見、同時に自分自身を見ることによって、分離の原則――〈私〉と〈私でないもの〉の原則――を根絶するのです。

質問者 私はあなたについていこうとしています。正しく理解できたでしょうか。木に気づくこと――それは理解できます。その木に対する心理的な反応――それも理解できます。心理的な反応は、過去の記憶や経験から成り立っている。それは好き嫌いであり、木と〈私〉との分離である。――ええ、ここまではすべて理解していると思います。

クリシュナムルティ これが、現実の木と同じくらいはっきりとわかりますか、それとも、ただ言葉の意味がはっきりとわかっただけでしょうか。思い出してください。先程言ったように、言葉はそれが表わしているものではありません。あなたは何を理解されましたか。事実でしょうか、それとも事実を言い表した言葉でしょうか。

質問者 事実だと思います。

クリシュナムルティ したがって、この事実を見ることのなかには、言葉である〈私〉はありません。どのような事実を見る場合にも〈私〉はありません。〈私〉があるか、それとも見ているかのどちらかです。それらは共存できません。〈私〉とは見ていない状態なのです。〈私〉は見ることができず、気づくことができません。



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