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序章 父の殺害
ニューヨーク 行方不明
1
「ええっ、親父が死んだ!」
コンマ数秒おくれる国際電話に苛つく。
「こたつのよこにパジャマのまま倒れていたんだって」
妹はやっと僕を見つけたという安堵と、一人では抱えきれない不安をぶつけてくる。
「なんであたしにも知らせないで外国いっちゃうの。こっちはとんでもないことになってんのよ」
僕は小説の取材で九日まえからニューヨークにきて、いとこの家に滞在していた。そういえば妹には言ってなかったかもしれない。長旅に慣れた僕には、二週間の取材旅行など旅のうちにははいらないのだ。
「僕だって、こんなとんでもないことになるとは予想もしてなかったよ」
「ちがうの。あんたが予想してるより、はるかにとんでもないことなの」
四歳年下の妹は二児の母である。四十二歳にもなって気ままな独身生活をつづけている僕より大人だ。
「おどかすなよ。いったいなにがあったんだ」
妹がとった間の長さに、尋常でない事態を感じた。
「……顔面に暴行のあとがあるのよ」
受話器が勝手に震えだす。
「いったいどうしたんだ、強盗でもはいったのか」
「とにかく一刻も早く帰ってきて」
もう一方の手で押さえると、悪霊に憑依されたごとく両手が痙攣しはじめた。
「もちろんすぐ帰国便を探すよ。でも誰が親父を殺したんだ?」
聴きとれないほどかすかな溜息が、一万一千キロ先から聞こえてきた。
「容疑者は……行方不明の息子よ」
2
僕が小学校一年生のとき、母は妹を連れて家出した。
現代では「DV」、ドメスティック・バイオレンスと呼ばれる家庭内暴力から、命からがら逃げたのだ。
人質に僕を残して。
その日から父はますます荒れた。
おばあちゃんが食事をつくり、夕食はお通夜のような静寂が張りつめていた。
「おかあちゃんはどこへいったの? おかあちゃんのポタージュスープが食べたいよう」
泣きじゃくる僕のまえで、冷めていく親子丼を見ながらおばあちゃんは言った。
「ごめんね、おばあちゃんはポタージュスープがつくれないんだよ」
父は強くもない酒をあおり、いきなり平手打ちが飛んでくる。
「おかあちゃんはもういないんだ、ぜいたく言うんじゃねえ!」
掘りごたつから体が浮いて、畳に小さな後頭部が跳ね返る。仰向けに倒れた僕は、手足を丸めこんで号泣する。
「ポタージュスープが食べたいよう、ポタージュスープが食べたいんだよう」
3
二〇〇二年、二月十三日。
父が五十年も働いていたホテルに、もと従業員Nさんが訪ねてきた。ホテルのあとを継いだ主人Sさんは、Nさんを交えて十年ぶりの旧交を温めあおうと父に電話した。
……話し中。
時間をあけて何度電話しても、ずっと話し中だった。
「どうせ明が長電話してんだろう」と、直接迎えにいくことにした。
鍵のかかっていない玄関をあけて呼んでも応答がない。
つぎのガラス戸をあけて、
Sさんは凍りついた。
両目を見開き、
両拳を胸のところで合わせ、
パジャマのまま仰向けにのけぞっている、
父を発見したのだ。
あわててかけより、
揺すぶった手首は、
石像のように冷たく、
固まっていた。
「死んでる!」
4
子どものころ、僕は「基地」をもっていた。
家の前に建つ木造の物置だ。駅前のおみやげ屋を閉めたとき売れ残った品々がしまわれていた。憤怒に満ちた般若のお面、不気味に笑うおかめのお面、見猿、言わ猿、聞か猿の彫り物、「人生は重荷を負いて、遠き道を行くがごとし」と書かれた家康の掛け軸、日本刀のイミテーションなど、「基地」は巨大なおもちゃ箱だった。
ある日僕は不思議な瓶を見つけた。大人の親指ほどの瓶にはさまざまな色の粉がはいっていたのだ。おそらく絵の具か染め物の顔料だろう。
これは、魔法使いの毒薬だ。
僕は夢中になって毒を調合しはじめた。箱にはいっていた計量スプーンで小さな計りに粉をのせ、慎重に混ぜ合わせる。毒の盛られた酒にのたうちながら死んでいく父の姿を夢想しながら。
5
Sさんは近くに住む僕の伯父を呼びに走った。
現場を見た伯父とSさんは、家の目の前にある警察署に飛びこんだ。
警察は父の顔面にできた痣を見て、「事件」だと判断した。
警察が妹に連絡すると、
「兄の行方は知りません」と言う。
Sさんと伯父が口裏を合わせないよう別室へ何時間も監禁して、事情聴取する。
「被害者と息子さんの関係は良好でしたか」
「ええ、たぶん」
「金銭的トラブルは?」
「わかりません」
「息子さんの職業は?」
「絵描きですが、本も書いてるらしいです」
「充分な収入はありましたか」
「それほど売れているとは思えません」
何者かに殺害された父親。
しかも同居人の息子は行方不明。
父親殺しの容疑は濃厚だ。
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