死後の存続
La Mort
モーリス・メーテルリンク著/山崎 剛訳

定価(本体1600円+税)
■四六判上製/198頁 ■ISBN 4-8397-0117-2 C0010 ■2004.9

恐怖は‘生’の側の問題か‘死’の側の問題か
ナポレオンは言った。
「はるか昔から、医者と坊主が死を苦痛に充ちたものにしてきた」と。
メーテルリンクは、霊媒や催眠術まで検証した後、現代のホスピスにおけるターミナルケアを予見していた。青い鳥のノ−ベル賞作家が死後の意識について考察する。カトリック教禁書目録に入れられたいわくつき問題作の新訳。


ためしよみ(冒頭より)

1章 死に対する不当な扱い

  一

 ある作家の称賛すべき一節である。
「死! 生を知るには、死そのものを探求しなければならない。先のわからない未来の生でも、もはやわれわれがいない死後の生でもなく……。死とは人間本来の終わりであり、すべては死ぬまでに起こるのだ。数の多さで得意になる子どものように、長さに価値をおく空しい延命も、人々や世間のことも、この期に及んで聞きたいとは思わない。私は今この世から完全に去ろうとしているのだから。生まれてから死ぬまでの現実や、そこに流れる時間にしか価値はないのだ。ほかは余計な余興であり、あらずもがなの舞台装置でしかない。人々は私の言葉や思想による微々たる名声ゆえに、私のことを師と呼ぶが、この死の前では私もおろおろする子供にすぎない
(※)
※マリ・ルネルー『自由に生きる人々』第三幕第四場

  二

 これがありのままの姿である。この生と世界において、重要な出来事はただ一つ、死しかないのである。どれほど警戒しようと、その隙をかいくぐって死は力を結集し、一挙に幸福に襲いかかってくる。逃れようとあがけばあがくほど、その虜になる。脅えれば脅えるほど、恐怖は増す。死は人間の恐怖を糧とするからだ。死を忘れようとする者は、死の思いに捕われ、死から逃れようとする者も、逃れる先には常に死が待ち構えている。死は一切をその暗い影で覆う。人はたえず死のことを考えていても、それは無意識に、さもなければ明確な認識ができずに、そうしているにすぎない。正面から見据えず、背を向けるものに、いやでも人は捕われる。また探求する意欲を他に逸らし、死に立ち向かう力をことごとく使い果たしてしまう。同時に、死を暗い本能の手にゆだね、明晰に考えることもない。
 死は何よりもわれわれと共にあり、避けがたいものであるのに、こんなことでは、いちばん完璧で明晰でなければならない死の観念だけが、時代遅れで歪められているのも無理はない。面と向かって見据えたこともない、この無類の力が理解できるわけもないし、そこから逃れるためにだけ点される知性の明かりが役に立つはずもない。人生の最も虚弱で荒廃した最後の瞬間まで、人は死という深淵の深さを知ろうとはしない。もはや力尽きた後でないと死のことを考えない。いや、考えないというより、肌身で感じ取れないのだ。
 別の時代の人間が仮に今われわれのもとに舞い戻ったら、われわれ現代人の魂の奥底に、彼が生きていた時代の神々や、義務や愛、あるいは世界の姿を見出すことは容易ではないだろう。だが周囲のすべてが変化し、また過去において死を生み、死の原因となっていたものでさえすでに失われていたとしても、死のイマージュだけは何百年も何千年も前に彼ら先祖が思い描いていた姿とほぼ同じ姿を、われわれの中に見出すだろう。少なからず強固で活発になったわれわれの知性も、死の領域においてはまったく役に立たず、いわば何の修正も加えられなかったのである。現代人はもう地獄に堕ちた者たちに対する責め苦など信じないが、それでも依然としてユダヤ人の黄泉
(シュオール)や、異教徒の冥府(ハデス)や、キリスト教徒の地獄の恐ろしい神秘が一人一人の奥底にーーまたとない不信心者の生命を維持するほんのわずかな細胞に至るまでーー拭いがたく染みついている。無類に研ぎ澄まされた知の炎でさえ、そこを照らし出すことはできない。しかし生の終わりには、この暗黒の深淵が常に口をあけている。そしてわれわれには、そこがどこよりも恐ろしいところだという以外にはほとんどわからないのである。
 だからたえずその危険にさらされているのに、顔を上げて見る勇気のないこの「時」がやって来ると、何もかも一気に崩れ去ってしまうのだ。よく吟味もせずに心頼みにしていた当てにならない二、三の想念も、最後の短い時の重みには耐えきれず、かぼそい葦のようにその前に屈してしまう。われわれは熟慮のないその場しのぎの思いや、真実の自分とは無縁の、魂への道を見出せないあれこれの思いにすがろうとするが、みな役には立たない。しかも、底知れぬ恐怖のほかに、最期の時の岸辺で待つ者もない。この恐怖以外には、われわれのために用意されたものも、眠らずに待っていてくれる者もない。

  三

「生命(いのち)を奪いに死が姿を現すとき」と、死の大詩人、ボシュエがどこかで言っていた。「闘いを挑もうとしない者は、キリスト教徒の名(人間の名を付け加えておこう)に値しない」。われわれの一人一人が足もとの明るいうちに知性を十分働かせ、この教えを身につけ、支えとすることは無駄ではない。そうすれば死に向かってこう言えるだろう。「私が主人として支配しない限りは、私にとってお前は存在しない。しかし、かつて今より高い世界が見えた時代には、そもそもお前が存在していなかったことを私は知っている。これだけでお前が私の主人になれないことが十分にわかるだろう」。
 この光景を深く記憶にとどめておくなら、最期の苦しみに打ち負かされることなく、幻覚に襲われても冷静でいられる拠点が得られるだろう。そのとき自身の存在について最大限明晰で秩序ある思いをめぐらせるなら、底知れぬ地獄の祈りにほかならない恐ろしい臨終の祈りなど唱えずとも、自分自身の祈りができるだろう。穏やかな天使のように生の高みの祈りが、これこそ祈りにに値するものではないのか。実際、未知なるものに到達し、それを掴み取ろうとする、激しくしかも私心のない努力以外に、真実の価値ある祈りがあるだろうか。

  四

 「はるか昔から」と、ナポレオンが言っていた。「医者と坊主が死を苦痛に充ちたものにしてきた」と。ベーコンによれば(実際はベーコンが引用したセネカの言葉)Pompa mortis magis terret quam mors ipsa,「葬礼ノ居丈高ナ行列ガ、死ソノモノヨリ人ヲ恐レサセル」。だから、死それ自体をありのままに、つまり、その過酷さや、想像の恐怖の垢を落とした死のほんとうの姿を見ることができるようになろうではないか。まず、死に先行し、死そのものと関わりのないすべてのものを追い払わなければならない。われわれは、末期の病苦を死のせいにするが、それはまちがっている。病と、そこのに終止符を打つ死との間には何の関わりもない。病は生の領域にあるものであり、死の領域のものではない。
 われわれは健康を回復すると、過酷だった病苦もほどなく忘れ去る。日の出の光のように回復の兆しが見えはじめると、あの重苦しい病室の、数々の耐え難い苦痛の思い出も消えていく。だが、ひとたび死が訪れると、その瞬間、それ以前に起こったすべての不幸の重荷を死に負わせる。すべての悲しみを思い出し、それを死のせいにする。苦しみの叫びという叫びは、死への非難になる。そして、無意味に苦痛を長引かせた自然の手抜かりと、科学の無知の責任をただ死にだけ負わせる。それが苦痛を終わらせたのに、生
(くつう)を終わらせたと言って、生の名において死を呪う。



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