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14章 死ぬことのない愛
二歳になる子どもの父親が何気なくテレビをつけると、飛び込んできたのは、オクラホマ・シティ連邦ビルの爆破現場からの映像でした。彼は、消防士たちが連邦ビル一階の育児所から、血まみれになり、ぐったりした子どもたちを運び出すのを見ました。以前ならそういった他人の悲劇を、ある程度距離をおいて見ることができたが、子どもができ、父親になってからは、変わったと言います。怪我をして運び出される子どもがみんな自分の子のように思え、すべての両親の悲しみが、自分の悲しみとして感じられた、と。
他者の苦しみを自分の苦しみとして感じる。他人事として傍観してはいられない。これが、私たちの中のソフト・スポット、すなわち菩提心(ぼだいしん)の発見です。菩提心とはサンスクリット語で、「貴い心、あるいは目覚めた心」という意味です。菩提心は誰もが持っています。バターがミルクに含まれているように、ゴマの中に油があるように、私にもあなたにもあります。
スティーブン・レヴィンがあるところで、激しい痛みに苦しみ、人生に深い恨みを抱きながら、死を待っていた女性について書いています。この女性がもうこれ以上、苦しみにも怒りにも耐えられないと思ったとき、意外なことに彼女が経験したのは、悩み苦しんでいるすべての人々の痛みでした。飢餓にあえぐエチオピアの母親の痛み、家出して薄汚いアパートの一室で麻薬の過剰摂取で死にかけている若者の痛み、地すべりに押し流され、川の土手でひとり死を待つ男の痛み。そして彼女は言いました。もはや痛みは、私ひとりの痛みではない。生きとし生けるものの痛みだ。人生は私だけのものだけでなく、ひとつの大きな人生そのものだと気づいた、と。
ものごとの壊れやすさ、存在そのもののもろさから自分を守りきれなくなったとき、私たちは菩提心を目覚めさせます。第十六代ギャルワ・カルマパは言います。「すべてを受け入れなさい。この世のあらゆる痛みを感じなさい。そしてそれを菩提心に変えなさい。」
現在、世界はとても困難な状況におかれていますが、そういう時代を癒すことができるのは菩提心だけです。インスピレーションが影をひそめ、あきらめが世界を覆っています。しかし、痛みそのものが持つ優しさの中に癒しを発見するのは、こんなときです。今こそ、菩提心に触れる時です。孤独や恐れの真っ只中に、誤解され拒絶されることのどまん中に、あらゆるものの鼓動が、真の悲しみがあります。
何百年も地中に埋まっていたにもかかわらず、色あせず傷もつかない宝石のように、この貴い心は私たちのあがきや悲鳴にもまったく影響を受けません。いつでも日の光の下に持ち出すことができて、まるで何事もなかったかのように美しくキラキラと輝きます。これと同じように私たちがどれほど不親切で、身勝手で、欲深い行動を繰り返しても、菩提心が失われることはありません。いつもそこにあり、何事にも冒されない完璧さを保っています。
私たちは、自分に対する優しさとは自分を苦しみから守ることだと思っています。しかし自分を苦しみから守ることでもたらされるのは、より大きな恐れ、頑なさ、疎外感だけです。自分が全体から隔絶されているという感じだけです。この隔絶感はまるで牢獄のようです。自分の希望や恐怖や思いやりがごく身近な人々に限定されてしまう牢獄です。奇妙なことに、不快なことから真っ先に自分を守ろうとすると、かえって苦しむことになります。自分を閉ざさず、心が痛むままにしてやれば、生きとし生けるものすべてを身近に感じることができます。ダライ・ラマ法王がこう言われています。「二種類の身勝手な人がいる。智慧のある身勝手な人と、智慧のない身勝手な人だ。智慧のない身勝手な人は、自分のことしか考えず、その結果もたらされるものは混乱と苦だ。智慧のある身勝手な人は、自分のためにできる最良のことは、他者のために在ることだと知っていて、その結果は歓びだ」と。
道ばたで物乞いをする母子、怯えた犬を叩きのめす男、いつも虐めにあっている子、虐待されつづけている幼な子の怯えきった瞳、それらを目にしたとき、あなたは、見るに耐えないと言って目をそむけませんか。たぶん、ほとんどの人がそうするでしょう。でも誰かが言わなくてはなりません。自分の感じることをわきへ押しやらないように、湧き上がる愛や悲しみを恥じないように、痛みを怖がらないようにと。私たちは自分のソフト・スポット、すなわち菩提心を目覚めさせることができる、そうすることで生き方を変えることができると。
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